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花は盛りに 

昨日、無性に、『花は盛りに…』を読みたくちゃったので。




花は盛りに、
月は隈なきをのみ、見るものかは。

(桜の花は満開のときばかり、月は満月ばかりを見るものか? いやそうではない。)

雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、
(雨を見ながら月にあこがれたり、家にこもって過ぎた春を思っ たりするのも、)

なほ、あはれに情深し。
(また趣(おもむき)があって風流なことである。)

咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。
(さらに言えば、開きかけた花のつぼみや、
 庭に散りしおれた花びらこそが鑑賞に値する。)


歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、
(和歌の詞書(ことばがき)を見ても、
 「花見に行ったが、もう散ってしまっていたので」とか)


「障る事ありてまからで」なども書けるは、
(「用があって花見に行けずに」とか書いてあるものは、)

「花を見て」と言へるに劣れる事かは。
(「花を見て」と書いてあるものより少ないわけではない。)

花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、
(むしろ、散った花や隠れた月に思いを寄せるのは自然なことであって、)

殊にかたくななる人ぞ、
「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。
(「どの枝の花も散ってしまって、もう見るものがない」
 などと言うのは無粋な人間のすることである。)



 



万の事も、始め・終りこそをかしけれ。
(どんなものでもその始まりと終わりが面白い。)

男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。
(たとえば、男女の恋愛について言うなら、結ばれることだけが恋ではない。)

逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、
(結ばれずに終わった悲しみを振り 返ったり、約束が反古にされたことを恨んだり、)

長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、
(女を待ちながら眠れぬ夜を明かしたり、好きな女のいる方向の空を眺めたり、)

浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。
(雑草の生えたあばらやで昔の女を 思ったりすることこそ、恋と呼ぶべきである。)





そして、初めて最後まで読んだら、、、

終わりはこんなふうになってたんですね、、、



かの桟敷の前をこゝら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、
知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。
この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、
ほどなく待ちつけぬべし。

大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、
滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。

都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。
一日に一人・二人のみならんや。
鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、
送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。
されば、棺を鬻く者、作りてうち置くほどなし。

若きにもよらず、強きにもよらず、思ひ懸けぬは死期なり。
今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。
暫しも世をのどかには思ひなんや。

継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、
取られん事いづれの石とも知らねども、
数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、
またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。

兵の、軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。
世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて、
これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。
閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。
その、死に臨める事、軍の陣に進めるに同じ。



(わたしは、この桟敷の前を行き交う多くの人たちをこうして眺めていると、
見覚えのある人がいかに多いかに気づく。
そしてわたしは知ったのである。
この世 にはそれほど多くの人がいるわけではなく、
わたしの死ぬ順番がこの人たちがみんな死んだ後だとしても、
死を待つ時間はわずかだということを。

水を入れた大きな器に小さな穴があいても、少し水が滴(したた)るだけだ。
しかし、絶え間なく漏れ続けると水はあっという間になくなってしまう。
人の寿命はこれに似ている。

都に暮らす人は多いが、人が死なない日はないのである。
それも一日に一人や二人ではない。
鳥部野や舟岡などの墓地に送られる人の数は、
多い日はあっても、誰も送らぬ日はないのである。
だから、棺桶屋の棺桶は作るそばから売れていく。

死は、若い人にも健康な人にも思いがけずやってくる。
今日まで死なずにいたこと自体、
不思議なことだと感謝すべきことなのである。
人生は長いなどと悠長に構えていてはいけないのだ。

人が死んでいくのは、碁石を円く並べて一定の順番に石を次々と除いていく
継子立てという遊びに似ている。
最初はどの石が除かれるか分からないし、数を数 えて一つの石を取り除いても、
ほかの石は逃れたように見える。
しかし、次々に数えて順番に取り除いていくと、
結局はどの石も逃れることは出来ない。
 
戦いに向かう兵士は、目前に死が迫っていることを知って、わが身も家族も捨てる。
あばら屋に住む世捨て人はのんきに庭石などをいじりながら
この戦いを他 人事に聞いていると思うなら、それは浅はかな誤りである。
静かな山のなかにも死という敵は押し寄せている。
世捨て人もまた死に立ち向かっているのである。
それは戦場に向かう兵士と何ら変わる所がない。(第137段))





改めて、吉田兼好は鋭いですね。。

私にとっては、まだ、
"万の始め" の風流は十分理解できても、
"万の終わり" は受け入れきれずにいます…

花の散り、月の傾くを慕ふのはまだ私には早すぎるのでしょうか。

思うに、人生とは、そのすべての時間をかけて
このことを理解するのではないでしょうか。

私は医者ですが、
"万の終わり" に正面から向き合えず、直視するのが怖い。
今でもそうです。
いえ、むしろ痛いほどわかるから、
これを仕事にするのは辛かったんです。

しかし、万の始め、終わりにこそ、人生の醍醐味がある、
そう思えてならないのです。
そうでないと、人生は短すぎる。

他人の目には疾風のように去り過ぎてしまった人生も、
きっと起承転結があり、その人なりに完結しているに違いないと
信じて止みません。






全部読みたい方はこちらをどうぞ。
>>> 『徒然草』第137段 現代語訳
>>> 原文はこっち




久しぶりに古文を読みました。
受験以来だったので、少々キツいとこもありましたが…(訳読みました)
医学以外にももっと勉強したいことがいっぱいあったことを思い出しました。
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Comments

お久しぶりです

Σさすが【吉田兼好】っ!
昔も今も同じなんですよね、人の生死は。そんな風に最近、よく思います。

( ^▽^)∠※☆ おめでとうでチュ~

投稿記事に全く関係ないのですが・・・(^^ゞ
16:45現在 10011
(*^ ^)/。・:*:・°'★,。・:*:・°'☆ Congratulations
出送れましたが。。。
数字がいいので何となくうれしい

これからもブログ死しないように頑張って面白い出来事一杯お願いします

古文ってのに全く造詣がないもので^_^;でも、言語の持つ表現能力はちょっとっ勉強しなくちゃいけませんね

ありがとうございます。

キリペタはならずとも、1万人の向こう側へようこそ~♪♪♪
あるイミ、9999ふんだ人って神秘的だなぁ!!
えぇ、ブログ死しないようにがんばりま~す(^v<)

雪守さん。

お名前変わったのね(^^;)
よくわかんなくて、確認するのに時間かかっちゃってゴメンね。
ブログ、見に行ってみました♪

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